日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年10月30日の礼拝メッセージから

メシアのイメージ

マタイ22章41〜45節


 私たちにとって難しいことの一つに、「それまで自分が持っていたイメージを変える」ということがあるのではないでしょうか。すでに自分の中に一つのイメージができあがっている時、それを変えて受け入れるということは、難しいことだと思うのです。
 当時のイスラエルの人々は、メシア(救い主)について、一つのイメージを持っていました。それは「ダビデの子」というイメージでした。ダビデというのは、旧約聖書に登場する王様です。イスラエルの人々にとって、時代を越えて、愛され、尊敬される英雄が「ダビデ」でした。ですから、人々が「メシアはダビデの子です」と言う時、そこにはできあがったイメージがありました。救い主はきっと、ダビデのように、敵を打ち滅ぼし、自分たちにかつてのような繁栄をもたらしてくれる・・・。そのようなイメージを持っていたのです。
 しかし、イエス様は、本日の箇所で、人々に対して、「どうしてメシアがダビデの子なのか。」(22:45)と言われました。人々がそれまで作りあげてしまっていたメシアのイメージに対して、「そうじゃない」と言われたのです。このイエス様の言葉に「だれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」(22:46)と記されています。人々はそれほどにイエス様の言葉に驚き、戸惑ったのでした。そんな彼らを見て、私たちはどう思うでしょうか。
 何というのでしょう。私たちは、本日の箇所を、どこか、他人事のように受け止めていることはないだろうかと思ったりします。私たちはすでにイエス様のことを知っています。イエス様がどのようにして生まれ、どのような歩みをなさっていかれたのかということも知っています。イエス様が十字架に向かわれたことも知っています。ですから、本日の箇所のファリサイ派の人々のように、メシアに対しての全然別のイメージを持ってしまっていて、そのイメージとのギャップに驚いたり、違和感を感じて、葛藤したりすることはないのだと思います。そんな中、人々の戸惑いや驚きを、どこか達観して「自分たちは分かっている」と思ったりしないだろうかと思うのです。私自身のこととして、そんなことを思いました。しかし、ふと「それでいいのだろうか」と思いました。私たちも、時に、神様に対して、自分勝手な考えやイメージを作り上げてしまっていることはないかと思ったのです。
 本日の人々の姿を見ながら、私自身のこととして問われたことがあります。それは、「砕かれる」ということです。私たちの中に、一つのイメージや考えというものができあがってしまっている時、それを変えて受け入れるということは困難です。しかし、もしも私たちが戸惑いや驚きを乗り越えて、その「新しいもの」を受けいれるとするなら、そこには、「砕かれる」という経験があるのではないでしょうか。ファリサイ派の人々も砕かれなければ、できあがっていた自分たちの考えを乗り越えて、イエス様の福音のメッセージを受け取ることはできなかったのではないかと思うのです。私たちも「砕かれる」という経験を通して、神様との大切なメッセージを受け取ることができるのだと思うのです。

                        (鈴木牧人)
 
                

 

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