日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年11月13日の礼拝メッセージから

本当の教師

マタイ23章1〜12節


 本日の箇所は、イエス様がファリサイ派の人々の行ないを厳しく批判した箇所です。イエス様はここで「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(23:3-4)と言われました。本日の御言葉を聞いて、どうでしょうか。ドキッとさせられる人も多いのではないでしょうか。かくいう、私もそうです。
 以前、こんな話を聞いたことがあります。子ども電話相談室で、ある子どもがこんな相談をしたそうです。「うちのお母さんは、私がお皿を割ると、『ダメでしょ』と言って、すごく怒ります。だけど、この前、自分がお皿を割った時には笑っていました。どうしてですか?」この質問に、相談室の先生は、ドキッとさせられたと話していました。この子が言っている通り、つじつまが合わない、おかしな話です。でも、そんなおかしいはずのことを、おかしいとも気づかずに平然とそういうことをしている…。そういうお母さんがいたのではないかと思います。ファリサイ派の人々へのイエス様の指摘を読みながら、この子どもの質問を思い出しました。人には負わせるが、自分たちは実行しない…。つじつまの合わない、おかしな話です。しかし、先ほどのお母さんがそうであったように、ファリサイ派の人々もそれがおかしいとも思わずに平然とそういうことをしていたのではないかと思います。
何でそんなふうに平然としているのか…。それをおかしいとも思わないのか…。色々なことが言えるかも知れませんが、結局、彼らは、いくら聖書を読んでも、それが自分自身に向けられて語られた御言葉として受け取っていなかったからなんじゃないかと思います。自分に向けられた言葉として、自分が問われている言葉として受け取っていない…。ですから、人には背負いきれない重荷を負わせるが、自分たちは実行しないのだと思うのです。私たちも、そんなふうに御言葉を受け取っていることがあるかも知れません。聖書の御言葉を自分自身に語られた御言葉として受け取っていないのです。そこで、どんなに御言葉が語られても、そこには「じつ」はありません。大切なことは、私たち一人一人が御言葉を他ならぬ自分に向けられた言葉として、受け取っていくことなのだと思います。
イエス様は、人から立派に見られようとばかりしているファリサイ派の人々の問題をも指摘しています(23:5)。しかし一方で、考えさせられることがありました。何というのでしょう。私たちの行動が人目ばかりを気にして、これ見よがしに見せようとしているというのは問題だと思います。しかし、私たちのしていることを誰かが見ているということをわきまえることは大事だったりするのではないかとも思うのです。私たちというのは、そんなふうに、お互いに見ること、見られることで互いに育まれていくということがあるのだと思います。そして、それというのは、言葉を変えるなら、「証しする」ということでもあるのだと思います。自分の信仰の歩み、生き様が、その人にとっての信仰の証しとなって、他の人に影響を及ぼしていく…。そんな証をする者、その証から学ぶ者、お互いに育まれていくのです。

                          (鈴木牧人)
 
                

 

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