日本バプテスト連盟  姪浜キリスト教会

2016年11月27日の礼拝メッセージから

ぶよ一匹さえ漉す世界

マタイ23章16-24節


本日の箇所に記されているファリサイ派の人たちに対する批判の言葉というのは、ちょっと読めば、よく理解できるのだと思います。ファリサイ派の人たちは、「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」(23:26)と主張していました。しかし、それに対して、イエス様は批判をしました。「そんな本末転倒な話があるか」「黄金と、神殿とどちらが尊いのか」「そもそもその黄金が清いものとなっているのは、神殿にあるからなのに、何でそんなことも分からないのか」イエス様はそのように言われたのです。
言われてみれば、明らかにおかしい…。そんなこと誰でもわかるような話なのだと思います。しかし、ファリサイ派の人たちは、そんなことを主張していたのでした。ファリサイ派の人たちは、それほど愚かだったのでしょうか。決して、そんなことなかったのだと思います。彼らはエリートでした。しかし、彼らはこんな愚かなことをしていたのです。何で、そんなことになっていたのでしょうか。色々な理由が挙げられるかも知れません。しかし、本日の箇所を読みながら思うのは、「何のためにそれをしているのか」「何が一番大事なのか」がぼやけてしまっている人々の姿です。「黄金と、神殿とどちらが尊いのか」「供え物と、祭壇とどちらは尊いのか」そんなことも分からなくなっている彼らというのは、「何のためにそれをしているのか」「何が大事なことなのか」分からなくなっていたのではないでしょうか。そして、そんなふうに分からなくなっている中で、本当のことがどんどん歪められてしまっていき、事がらが変質してしまい、本来の意味をどんどん失っていってしまっていき、いつの間にか、ちょっと立ち止まって、考えたら、むちゃくちゃだと分かるような考えが平気で横行していたのだと思うのです。
本日のファリサイ派の人たちの姿を思う時、ここに私たちの心に内在する「罪」の問題があるのではないかと思います。「罪」というのは、ギリシア語で「ハマルティア」と言います。「的はずれ」という意味です。弓矢が的に向かって放たれる時、その弓矢がどんどん的の中心をはずれて、突き進んでいく…。それがハマルティアです。私たちには、そのような罪の性質、的はずれの性質があるのだと、聖書は語るのです。そして、そんな的はずれの性質を抱えた私たちが向かうのは、まさにファリサイ派の人々のような歩みなのだと思います。本来、それを何のためにそれをしているのか、何が大事なことなのか、分からなくなっている中で、私たちの向かっていく方向が、どんどん的をはずしていく…。そんな中、本来、私たちが向かおうと願っていたはずの方向とは違う方向に私たちの歩みが向かってしまう…。それが、ハマルティアの性質を抱えた私たちの姿なのです。ですから、「私たちは罪人です。」そのように告白するということは、私たちは人間として、そのような性質というものを内に抱えているということをよくよくわきまえ、そのことを心に刻むということを意味するのです。

                        (鈴木牧人)
 
                

 

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