「何もかも捨てて」
マタイによる福音書一九章一六―三〇節

◇永遠の命
わたしたちは、時折、「天国」と言う言葉を言ったり聞いたりするときがあります。この世の命の終わりが来たとき「天国」へ行く、と言う話をするときもあります。なぜなら、人間には霊とか魂の存在があると信じているからだと思います。そして、その霊的な存在は、この世の命が終わってもあり続けると言う考えは多くの人の中にあるからだと思います。更に、新約聖書の中に神の国と言う言葉でも記されていますので、まず疑いなくそのことを私たちは受け入れている訳です。
しかし、旧約聖書の中には、永遠の命とか天国、神の国という言葉は殆ど出てきません。ですから、この男の人も当時の信仰においてイエスに訪ねたのではないだろうと思われます。
一方、新約時代になりイエスは永遠の命について時折弟子たちやついて来ている群衆に語っております。マルコでは、イエスがガリラヤで伝道を始められたときの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との教えでした。また、ヨハネの福音書では、ファリサイ派のニコデモと言う議員がイエスの元へ来たとき、イエスは「新しく生まれなければ神の国を見ることができない」と言われました。その言葉の前にギリシャ語では「まことに、まことに、あなたに言う」との言葉が入っています。その後「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言う御言葉を述べておられます。
ですから、ここに登場しました一人の男も、そのイエスの言葉を聞いて心に深く聞き止めたのかも知れません。そして、その意味を是非知りたいと切望してイエスに近づいて来たのです。この様子は、ニコデモの時とかなり違っています。ニコデモがイエスの所へやって来た時の言葉は「ある」と言う意味で、ニコデモはイエスの所へ来ていた、と言う内容になっています。しかしこの男はイエスに近寄って来た、そこにこの男のなみなみならない切迫感が感じられます。

◇富める青年
では、この男はどんな人だったのか見てみたいと思います。まず、お読みして分かりますように、この方は、たくさんの財産を持っていたようです。また、平行記事のルカでは、「議員」であったとも告げられています。またマタイのこの箇所の22節では「青年」と記されています。そういう方がイエスに急ぐように近寄ってきて「永遠の命」について尋ねています。
この質問にイエスは、十戒を(後半部分)守るようにと言われます。しかし、この青年は「そういうことはみな守ってきました」と言っています。この会話から、この青年がどのような人物なのかを想像することができると思います。若くして財産があり、社会的な地位もある人です。そして、品行方正な何の落ち度の無いような人です。みんなから議員として尊敬の眼差しで見られているような、お手本のような人ではないだろうかと思われます。
当時の社会では「永遠の命」とは、神の国にはいり、イスラエルの民として救われることを意味します。
少し横道にそれるかも知れませんが、私は社会人として就職した当初、義理のお姉さんの迎え側にあるアパートを借りて住んでいました。時々、様子を見に来てくれましたが、ある日、何かいそいそとやってきて、こう言うのです。「キリスト教って、死んでからの宗教なんだってね」と。一瞬びっくりしたのですが、それに対して、私は「いや、それもあるけれど、それよりも今生きる事に関わっている宗教です」と言った事を思い出します。
キリスト教の「永遠の命」と言いますのは、完全に救われることを意味しますが、それはこの地上の命がなくなった後の問題だけではないと言うことです。死んだ後に初めて与えられると言う理解ではありません。つまり、今の命に関係しているのです。聖書では、人間の死は勿論肉体の死そのものを言う場合もありますが、それよりも、神から見放された、正確には、その人が神との関係を絶ってしまった時に言われる言葉です。確かに、人間が死んだらどうなるかと言うことは、永遠の謎かも知れませんが、しかし、神は永遠という時の中でその命をご覧になると言うことです。ですから、神との関係なくしては「永遠の命」と言うことも存在しないことになります。

◇何をすれば…
先ほど、神の国とか永遠の命についてイエスが時折教えられたことを述べましたが、マタイでは、この物語の直前に、イエスは子どもたちを呼び寄せて「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。天の国と永遠の命とは密接な関係にあります。そして、彼はイエスの言われた斬新な言葉に心動かされたのではないでしょうか。彼はお金持ちで指導的立場にありながら、「永遠の命」に与っていない、即ち満たされないものを感じているのです。青年はイエスに「まだ何か欠けているでしょうか」と問うていますが、この満たされない気持ちを解決するには「どんな善いことをすればよい」のか知りたいのです。

◇全て貧しい人々に施し、わたしに従いなさい
ところが、イエスはこの青年にとても厳しいことを告げられます。「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」このひと言を聞いて、この青年は高揚していた心がぐらっと揺れ動き、何か違うんじゃないかと思ったのではないでしょうか。しかし、それに追い打ちをかけるようにして、イエスは「それから、わたしに従いなさい。」とたたみかけます。「天に富を積む」と言う言葉も余り分からないうちに、その揺らいだ心が、ダブルパンチを食ってどん底へと落ち込んでいったのです。
イエスは言われます。神への信頼において完全になるためには、富から決別しなければならない。つまり、自分の持ち物を売って貧しい人に施すことだと。多分これは、「全ての財産」を指しているでしょう。

しかし、もう一つのこと、それがイエスの言いたいことであったのだろうと思います。「それから、わたしに従いなさい」と言うことです。
この男は青年であった。まだ若いのにたくさんの財産を持っていたと言いますが、その財産を売り払うことが惜しかったのだろうか。しかし、財産を処分したとて、新たな財産はまた作れるのではないか。そして貧しい人たちに施すことはできます。まだ若いのだから、と考えることもできます。
むしろこの青年は、イエスの最後の言葉に、彼の思考と行動を止めてしまった原因があったのである。イエスの弟子になることは、自分の手腕や行動力、思考という今まで培ってきた名誉や地位を捨てなければならない、そのことがこの青年にとって捨てられない「財産」であったのではないだろうか。
この青年にとって、自分の命と力そのものであった富から自由になり、イエスに従うことを求められた時、今まで知らなかったものが現れてきたのです。つまり、「敬虔なる無神論者」である事実が一挙に暴露されてしまったのである。

◇去って行く青年の姿を見て
そして、この青年は「悲しみながら立ち去った」とあります。「永遠の命」と、自分の財産を捨て、イエスに従う事とはどうしてもつながらないのです。ですから、この青年は、自分があの弟子たちのようになることは論外だと思いました。あのように、未来の見えない貧しげな、彼らの一員になることは、今までの彼の生活からは想像することもできません。彼の願いは、自分が築いてきた、今の財産や地位の上に、更に「永遠の命」と言う精神的な充実感が欲しかっただけなのです。彼が、自分の財産を(後で弟子たちが言っているように)「何もかも捨てて」イエスに従うことは、とてつもない高いハードルでした。結局それは、自分を捨てることに他ならないからです。しかし、人間はそう簡単に捨てたり変わったり出来るものではありません。彼にとって、何もかも捨てて、イエスに従うことは、イエスが後で言われているように「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」ことのようなのです。
その青年の後ろ姿から目を転じて、「イエスは弟子たちに言われた。」とあります。マルコの方では「10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた」と記しております。「見回して言われた」と言う表現から、この時イエスの、誠に悲しむべき残念な気持ちが現れています。そのとき、イエスは彼同様に悲しまれたのではないでしょうか。

◇フランシスコの回心
この青年とよく似た話ですが、その結末は全く逆の実話があります。一三世紀の初葉、二五歳のイタリア出身のこの人は、裕福な家に生まれ、何不自由はなかったのですが、ある日、彼の心に異変が起こります。それは、富める青年と似た心境であったかも知れません。心に充実感がない中何かを求めてさまよっていました。その心には一種の恐怖感のようなものに襲われています。
しかし、ある時、武器を持って馬に乗って歩いている時、今にもそこでのたれ死にしそうな一人のらいの人に出会います。その時彼は、そのらい病人に駆け寄り、我を忘れ、そのまわりに彼の武器を投げ棄てます。そしてこの男に彼は与えられるだけの金を与え、馬に乗り立ち去って行きます。彼の心にどんな変化が起こったのか、それが多くの癩病人のために奉仕をした、彼の生涯の始まりでした。
そうです、彼はアッシジのフランチェスコです。フランシスコ会の創始者となりました。彼のそのらいの男との出会いについて、彼が後を振り返ったとき、路上に人の姿を見なかったと言われています。それ以来フランチェスコが信じているように、その日その癩病人として、彼に現れたのはイエス・キリストであったと多くの人々が信じている、と伝えられています。

◇青年の問題
今朝の聖書箇所に登場する青年と、フランチェスコの違いはどこにあったのでしょうか。富める青年は自分の財産を捨てることは出来なかった、つまり自分が主体になっています。この青年は「まだ何か欠けているでしょうか」と問うていますが、この「まだ」と言う言葉が意味するもの、それは、私はやるべきことは全てやってきたと言う、あくまでも自分が主体なのです。
フランシスコも、自分の心に迫ってきた欲求不満のような心境は同じだと思います。しかし、彼はらいの男の出会いによって、その男のために自分の全てを捨て、その男のために尽くす生涯へと転じて行ったのです。両方ともイエスとの出会いがあります。フランシスコは出会ったイエスに何もかも捨てて尽くしていったのです。自分が主体かどうかの違いがあります。

この青年が「何もかも捨てて」貧しくも愛に満ちた道に立とうとするなら「永遠の命」はすでにそこにあり、もはやそれが目的とはならなかったはずです。それは、自分というしがらみから解放された自由の世界です。それはまた、自分が囚われているさまざまな障害から癒されて、貧しい「後の者が先になる」神の世界です。そのように、主が私たちを受け入れて下さっていることを信じ、主に従うことの喜びを共にしたいと思います。