平成19年(ネ)第4274号
控訴人 石井一昌
被控訴人 倉林誠治
陳述書
東京高等裁判所第14民事部ハA係御中
平成19年10月10日
斎藤庄一署名捺印
1. 始めに
私は昭和35年に護國團に入り、以後47年間石井先生と共に愛國運動を行ってきました。現在は石井先生の後任として団長を務めています。私が入ってまもなく石井先生は60年安保で長期不在となりましたが、護國團は石井先生の人徳で周囲の励ましや暖かい援助も受けて、石井先生の復帰まで万全の体制で続きました。石井先生不在中で私の記憶にある一つは、昭和37年か38年頃だったと思いますが、護國團と共産党の間に軋轢があり、共産党の機関紙赤旗が「護國團が人を殺した」との趣旨の記事を書いたので、当時私は運転手として幹部が共産党へ抗議に行くのに同行しましたが、その抗議の相手が松本善明でした。第一審の石井先生の相手の倉林誠治の代理人横山聡氏が所属する代々木総合法律事務所の松本善明と同一です。
石井先生は一度信じたら疑うということを知らない面があります。石井先生は常々「外部に向かって闘っているのに、信じた内輪や下の者までいちいち疑っていたら戦ができない」と言っています。
随分前ですが、石井先生が信頼している倉林誠治の悪い評判が再三再四耳に入ってきた私は、思い余って一度「おやじ(石井先生のこと)あれ(倉林誠治)はおかしいですよ」と忠告しましたが「バカヤロー、俺の友達が信用できないのか」と一喝され、わざわざ倉林誠治を護國團の事務所まで連れて来て私たちは挨拶させられたことがありました。
2. 南台2-40-5の買い取り価格3800万円についての話をする
私が前任の佐藤忠良を引き継いだのは、平成13年ごろでした。 佐藤から私が引き継いだ時は、石井先生が南台2-40-5の不動産(以下南台物件と称す)を、倉林誠治さんは3800万円と言っていたのが本当は1800万円だったので、その清算のためでした。ですから当時は私は石井先生の4500万円の預け金は知りませんでした(石井先生は全部自分で決めて自分一人にしまっておく人です)が、不動産の代金3800万円に対する1800万円の清算の話だったので、倉林誠治さんに3800万円は渡っていると思っていました。それでなくては倉林誠治さんが清算の話に延々と付き合うはずがありませんから。そうこうしているうちに倉林誠治さんが倒れて、代わって倉林陽子さん(以下陽子さんと称す)が話に出て来たのが平成16年の始め頃だったと思います。
それから陽子さんとは大体月に一度ほど引き続いて何度も南台物件の清算の話を、倉林誠治さんが3800万円と言っていた購入代金を前提にしていましたので、当然石井先生から倉林誠治さんに南台物件の代金として3800万円は渡っているのを倉林誠治さんから聞いているので続けて話をしているものと思っていました。
平成16年9月頃になって相変わらず進捗しない南台物件の清算交渉をしていると、突然陽子さんが合計5,385,000円の紙を借用証と称してズラッと私に見せました。石井先生の字のようなのでその場では一応受け入れて帰り、話の経緯を石井先生に告げると「とんでもない。その金は全部返している。後で破っておくと言ったものだ。」と言われました。
そして平成16年暮れ頃に南台物件の清算は800万円でどうかと言うので、帰ってこのことを石井先生に告げると、「冗談じゃない。俺は倉林誠治に4500万円預けてあるんだ。」と一蹴するので話しは棚上げになり、これまでほぼ一月に一度行われていた話し合いが中断しました。この時になって石井先生は始めて私に4500万円の預け金の話をしたのでした。ここまでの交渉は私がずっと出ていて、石井先生が陽子さんに会ったことは一度もありません。私は陽子さんと話していて、陽子さんは南台商店街でつまはじき者だった倉林誠治さんにも増して、したたかという印象を持ちました。
石井先生からは「ずっと以前におまえ(斎藤)から倉林(誠治)のことを忠告されたのに、バカヤローと怒鳴って、反対に倉林を事務所まで連れて来ておまえらに挨拶させた。その手前格好悪くて「騙し取られていた」とは言えなかった。すまん。」と言われました。
3. 平成17年の交渉
平成17年3月になって、石井先生から「倉林誠治がよくなったら清算するということで、とりあえず陽子さんから160万円借りた。」と告げられ、そして中西玲子さんが立会いということを陽子さんが了承したので、また交渉に行ってほしいと言われて訪れました。石井先生が160万円借りたと言ってからしばらくしてからでした。
中断するまでの陽子さんとの交渉は相変わらずで、私は物事を整理して順序付ける訓練も習慣もありませんので交渉の都度のいちいち内容はよく覚えていませんが、中西玲子さんの立会いはこの一度だったので、ある程度の記憶があります。私は中西玲子さんが初めてなので後で立会いの様子を石井先生に説明しやすいだろうと参考の為に、倉林側の言い分を書いた私の覚え書きを持参し、カウンターの上で広げながら、平成16年の暮れ頃に中断した話の続きを行いました。そのうちに中西玲子さんが206号室の管理費の話を切り出すと倉林陽子さんが「家賃ももらっていないし、そちらで」と言ったら、中西玲子さんが「家賃ぐらい4500万円の利息」と言いました。次ぎに倉林陽子さんが「利息はそんなにならない」というと、中西玲子さんが「石原さんからは月30万貰ってた。家賃はせいぜい10万ぐらい」というので、関西の人間(中西玲子さんのことです)はお金の話を露骨にするなと思ったので記憶にあります。そして陽子さんが私のメモ書きを控えていました。話の終わりごろに「800万円で清算するといっても、不動産で持っているほうがいいかもしれませんね。」とも言っていました。
中西玲子さんの立会いが一度でなくなったので私も行かなくなりました。その後平成17年6月30日になって石井先生は突然私に「140万円を陽子さんから受取ってきて欲しい」といわれたので訪れて預り証を書いたのでした。
4. 内容証明の真実を説明に行くも追い返される
平成18年の2月になり、石井先生から《倉林陽子に「俺と話がやりにくかったら弁護士でも誰でも代理人を立ててくれ」と言ってくれ》と言われたので、私は陽子さんに電話したら「相談する人がいる」と言われました。一月ほどして再び陽子さんに電話をしたら「弁護士に相談する」と言われましたので石井先生に告げたら、石井先生は「弁護士でも何でもいいから相談して貰ってくれ」と言っていました。それから待っていても弁護士から連絡が来る気配がないので5月22日までに電話一度と正公堂に三度訪れました。石井先生は「一時は町内会費も払わない時もあったほどケチだから弁護士に出す金をケチっているんだろう」と言っていました。やっと平成18年5月22日に内容証明が届きました。それを見て中身が真実とは随分違う内容だったので、弁護士は倉林誠治に騙されているから真実を説明してこいと石井先生に言われて、私は護國團理事長の長嶋健吉を伴い倉林誠治の代理人横山聡氏の所属する共産党の松本善明の代々木総合法律事務所を訪れましたが、説明を聞くでもなく「法に従って」と追い返されたのです。
5. 訴状が届き松本州弘氏に相談
平成18年9月始めに8月30日付の訴状が届きました。私は旧知の弁護士にFAXしましたが、体調を崩していて引き受けられないとのことでした。私は数日考えあぐねた末に石井先生とは30年来の知人で私も親しい行政調査新聞社の松本州弘氏に相談しました。電話では失礼なので翌日川越市の行政調査新聞社を訪れましたところ、篠原常一郎氏(以下篠原氏と称す)がいて「行政調査新聞社 政治部記者 篠原常一郎」の名刺を渡されました。とりあえず「口頭弁論期日延期のお願いはしなければならない」と言われました。お恥ずかしい話ですが、お金がありませんでしたので着手金は僅かで成功報酬払いというお願いもあり、それからの間に「引き受けてくれるのは共産党の弁護士」「毒には毒で共産党の弁護士には同じ共産党がいい。この弁護士は共産党でも「傍流」だから大丈夫だ。」ということで、それも快く引き受けていただけることとなり、有り難く思いました。石井先生が常々口にする「庶民の味方」とはこのようなものだと思いました。
平成18年9月26日に篠原氏に伴われて河内謙策弁護士(以下河内弁護士と称す)の事務所へ護國團事務局長の中野良介を帯同して最初の着手金5万円を持参したのが河内弁護士とお会いした最初でした。この時に「選任届」を出してくれと言われたので、真ん中半分ほどが空白の用紙に石井先生の住所と名前を書いて印鑑を押しました。これは平成18年9月26日付けです。今回石井先生から「訴訟委任状を知っているか」と尋ねられ「知らない」と言うと実物を見せられましたが私が見たこともない書面でした。私が書いた書面には1.2.3.4.5.の数字も文字も一切入っていませんでした。もしこれが入っていれば私は勝手に石井先生の名前を書きません。石井先生に「これこれの内容ですが署名捺印してもいいですか」と打診します。石井先生は任せるまではうるさい人なのです。しかも訴訟委任状の日付は選任届に私が書いた日付とも違います。この書類は今回始めて石井先生から見せられたもので、私は河内弁護士からも篠原氏からもコピーは貰っていない書類です。刑事事件を知っている私はあくまでも「選任届」と言われたので気軽に応じたのでした。
この平成18年9月から平成19年5月10日までは石井先生は河内弁護士と会ったことは一度もなく、全て私が窓口となっていました。河内弁護士の書類も篠原氏が「全部石井先生が目を通して了解している。」と言って護國團の事務所に持ってきていました。私は「おやじ(石井先生)が承知なら」と篠原氏の言に従っていました。今回の件で石井先生と話したら、それは真っ赤なウソで篠原氏が事前に石井先生のところに書類を持ってきたことは一度もないとのことでした。私達の世界では「おやじが(トップの者が)」と言われるとそのまま受け入れる習性のようなものがあり、右翼を知っている篠原氏はそれを悪用したのだと今では思っています。それは石井先生の陳述書の文中の石井先生の名前も生年月日も間違っていることからもご理解いただけると思います。目を通していれば自分の名前や生年月日の間違いには気が付きます。
石井先生はそれよりも一年前の平成17年10月から消化器の系統がおかしくて、護國團の事務所のトイレは洋式でないので事務所には滅多に来なくなっていました。また私も裁判の書類などは見ただけでは意味がわからず、忙しい篠原氏に逐一説明を求めることもしませんでした。とにかく義に感じ入っていたのですっかり信用していたのです。しかも松本州弘氏のところの人物です。前述のように篠原氏から受取った名刺は「行政調査新聞社 政治部記者 篠原常一郎」であり、少なくとも私達右翼の世界の常識ではこの名刺だと松本州弘氏と「同じ」ということになります。篠原氏はあくまでも30年来の石井先生の親しい知人松本州弘氏の代理と私が受取る形で私の前に現れました。ですから松本州弘氏を信用するのと同じく、一見の、どこの誰か定かでない篠原氏も信用したのでした。
法律の専門家の集まりの裁判官や弁護士の先生方には無責任と思われるかもしれませんが、大方の庶民は裁判で弁護士に任せた場合はそうではないでしょうか。だからこそ弁護士のバッジを信頼してお任せするのです。
6. 乙1号証と乙2号証で「楽勝」と告げられる
続いて平成18年10月7日だったと思いますが、陳述書の準備として石井先生が用意した証人伊東千恵氏と浅香純一氏を交え、神楽坂の翁庵で会いました。この時は石井先生は来ていましたが河内弁護士は来ておらず代行として篠原氏が同席していました。松本州弘氏ともう一人いたと思います。つまり篠原氏は河内弁護士の弁護士事務所の職員が来る代わりに河内弁護士の代理同様に参加して、以後この裁判にずっと関わったのでした。そして伊東千恵氏と浅香純一氏の陳述書を乙1号証と乙2号証として提出したところ、篠原氏から平成18年12月始め頃に「乙1号証と乙2号証の陳述書だけで十分だ。石井先生の言い分は十分認められた。倉林側は慌てふためいている。楽勝だ。石原利博氏の証人申請はもう要らないと却下された。」と告げられたのです。この石原利博氏とは平成18年11月8日に篠原氏が聞き取りをした人物のことです。石原利博氏のことは上述の翁庵で篠原氏には既に知らせてありました。この「楽勝」を石井先生に知らせたところ石井先生は「やはり真実は強い」とそして河内弁護士に感謝したのでした。
7. 4500万円と1200万円の相殺を先にすると告げられる
上述のように私は佐藤忠良に引き続いて南台物件の清算交渉をしていた最中の平成16年9月頃に突然陽子さんから合計5,385,000円の紙を見せられた時に、石井先生から「とんでもない。その金は全部返している。後で破っておくと言ったものだ。」と言われてますので、その話も当初に篠原氏に伝えてあります。しかし「一度に主張すると混乱するのでまずは4500万円と1200万円の相殺を主張して、その後で1200万円のうちの返している部分に触れればいい」と言われましたので、法廷闘争はわかりませんのでお任せしたのです。それに何度も言いますが、とにかく信じ切っていたのです。石井先生にもそのようにお知らせしてありましたので石井先生としたら本人尋問で主張するものだと思っていて5月11日に本人尋問の練習に訪れたら、河内弁護士は「真実は必ずしも有利とは限らない」と言い出し、「1200万円は借りたのを認めて4500万円は改めて返金訴訟を起せばいい。私が引き受けますよ。」と石井先生の代理人でありながら石井先生の主張を覆して倉林誠治側につくようなとんでもないことを言い出すので「話にならない」と憤慨して帰ったのです。石井先生は帰り道でも「4500万円の返金訴訟が出来るぐらいならとっくに起している。こちらは倉林に完全に騙されたから敵失に付け込むしかない。今回の訴訟が渡りに船なのだ。話にならない。」と憤慨していましたが私もまったく同感でした。5月15日にも河内弁護士は同じことの繰り返しで埒があきませんでした。
8. 河内弁護士の解任を告げる
そんな状態で5月17日の本人尋問で河内弁護士に完全に不信感を持った石井先生は、河内弁護士の解任を告げるのに篠原氏だけに告げては、篠原氏は松本州弘氏に言い訳が出来ないだろうと、わざわざ松本州弘氏と篠原氏の両名に護國團の事務所にきてもらい、平成19年6月8日に河内弁護士の解任を告げたのでした。松本州弘氏を通して告げた以上、以後は松本州弘氏経由になるはずが、篠原氏は翌日になって直接電話で石井先生に「解任だけはしないでくれ」と泣きついてきたのでした。このような不自然は右翼の世界では普通は考えられないことです。松本州弘氏を通せない切羽詰った事情が篠原氏側にあったとしか考えられません。
9. 篠原氏に石原利博氏の聞き取りの件を確認する
本人訴訟になった平成19年7月2日になり、篠原氏が平成18年12月始め頃に告げた「楽勝」とは裏腹のおかしな感触に、石井先生は篠原氏に石原利博氏の聞き取りをした時のことを知らせるように連絡すると、篠原氏はメールで連絡を寄越しましたが、その日時が昨年の12月に「楽勝」と告げられた日よりも随分後の平成19年3月頃となっていたので、石井先生は7月11日に石原利博氏に確認したら平成18年11月8日午前10時からとはっきりとした返事を頂きましたので、石井先生は私に《篠原が裏切ったのは確実になった。松本(州弘)に「松本の名において信用した篠原が裏切った。」と交渉して来い。》と言われたので川越市の行政調査新聞社を訪れると、篠原氏は不在で松本州弘氏が「石井先生から篠原の携帯に留守電が入っていたが、篠原の嫁さんが学校の先生で、篠原の女関係を疑って篠原の携帯を調べたら、石井先生の伝言があり、問い詰めたら仰天して警察へ飛び込むと言っている。相手は堅気ですから。」と言われ、しかも石井先生にも同じことを電話していました。篠原氏が不在でもあり私は帰ったところ、翌日「篠原退社」との知らせがありました。
終わりに
石井先生は一度目は倉林誠治に完全に騙され、今度は相手方倉林誠治の弁護士と同じ共産党の弁護士に完全に騙されるという共産党の総力を挙げた黒を白と言いくるめる普通では考えられない裁判であったということをご理解いただき、どうか庶民の正義のためにも司法に対する信頼のためにも真実を見極めた裁判をお願いするものです。以上