2012/02/10
■ 伝統論
「Amazon.co.jp: 肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー (クラテール叢書 (1)): マリオ・プラーツ, 倉智 恒夫: 本」、九分の五。
すっかり間が開いてしまって、内容もだいぶ忘れてしまった。つまるところ、僕はこの手のものにはあまり縁がないのかもしれない。つまり、これらデカダン一派の作品は「私はこのように凄い悪を知っている」ということを繰り返しており、それは基本的には先行するイメージの再利用に他ならない。そういう意味では保守的なものである。新たな意味を模索したり、「美」や「悪」がどのように成立するかという条件に対する対象化の意識はさほど感じられない。少数派で日陰の存在であるが、その内部における伝統と形式を重んじているのである。
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■ 登攀論
「Amazon.co.jp: 宇宙飛行士ピルクス物語(下) (ハヤカワ文庫SF): スタニスワフ レム, John Harris, 深見 弾: 本」、七分の一。
やや話は脱線するが、レムは登山が趣味だったのだろうか? ピルクスを通じてではあるが、割と本格的にやっているなと思わせる描写がある。ルーマニア人のエリアーデも、回想録によればシーズンごとに何かというと山に登っている。東欧における登山のステイタスについて考える。
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■ 回避論
「Amazon.co.jp: 彼自身による ロラン・バルト: ロラン バルト, Roland Barthes, 佐藤 信夫: 本」、八分の七。
「書く」ことに対してあまりにも青い時、人はそこに「主張」を込めたがる。いまや、正義はどこにでも売っている。エコロジーに自分探し。平和にクリーンエネルギーなどなど。こうして、人は正義の味方となり、その正義を人々の鼻先に突きつけて回る。それはもはや正義ではなく、心理的な問題に過ぎない。別種の「力」への心酔なのである。その逆の道をわざと進む人たちもいる。ニヒリズム。所詮人間はエゴの塊。俺一人が踏ん張ったところで大勢に影響はない云々。両者は正反対を向いているようだが、昨日までの正義の使徒が今日の虚無主義者という例も珍しくはない。何かしら通ずるものがあるのだ。つまり「態度の決定とその盲信」という意味において。
バルトは、何かが何かを意味して、その向こうへ引っ張られていってしまう前に身を引く。何かが決定されてしまうと、それに段々とすべてが侵食されてしまうからだ。実際の人間一人ひとりはもう少し多義的でいい加減なものである。今まさに何かが決定されようとしているその現場に踏みとどまり、罠に足を踏み込んでしまうことを回避する。「正義」と「悪」に振り分けられてしまうことをひたすらに避ける。それはモラトリアムの非決定的な態度とさほど見分けがつかないが、それでも質的には別のものである。
2012/02/08
■ 媒介論
「Amazon.co.jp: 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫): プルースト, 吉川 一義: 本」、三分の二。
言葉というものは、本来どのような組み合わせも可能である。それを阻害する記号的な要因は何もない。しかし、それでも我々は何かと何かの組み合わせを自然だと感じたり、逆に収まりが悪いと思ったりすることがある。その境のようなものは常に不鮮明で、日々新たに確認していかなければ分からないようなものだ。意図的に不自然さをまとわせることもあるし、自然だと思っていたはずのものがいつしかすっかりその内実を失っていたりする。
若い頃は、言葉というものは自らの意思で構築していけるものだと考えていた。何せ、自分が書いたり、喋ったりしているのは間違いないのだから、それは僕の自由意志によるはずではないか。しかし、年を取ると、言葉そのものの導きによって、その最も美しい、座りのよい姿というものにたどり着くほかはないという感覚を抱くようになる。僕の矮小な自意識など、それを探し当てるための媒介に過ぎない。それをうまく彫り出せるか、的にちゃんと当てられるか、表現の技術というものはそういうイメージになってくる。
ありふれた表現は貧しい表現だ。かつて、僕はそう思っていた。しかし、ありふれた表現の中には、選択の余地なくそう書かれる他はない力強さを持ったものが稀にあるのだ。それをひとつずつ見つけていくこと、「書く」ということは今僕にとってそのようなものである。
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■ 露出論
「Amazon.co.jp: ペインティッド・バード (東欧の想像力): イェジー コシンスキ, 西 成彦: 本」、四分の三。
子供が主人公で、その視点で描かれているからということによるのだろうか。ずっと、何かに対して言い訳をしているような、見えない誰かに説明をしているような調子が文章にずっとまとわりついている。「手記」という形式ではないので、一人称の地の文は内的な独白を文字にしたものといってよいかと思う。それにしては説明的な文章も多く、端的に言えばそれほど構成的に巧いとは思えない。彼はいったい誰に「赤軍」や「スターリン」のことを説明しようとしているのだろう。そもそも、この文章を想起している主人公はいったい今何歳なのだろう。子供にしては語彙が豊富すぎるし、大人になって回想しているにしてはリアルタイム感が強すぎる。「今書かれていることが、今起きていることである」という感じが。
数々の残酷な出来事が描かれる。しかし、どれもこれもこの小説で初めて知るようなものではない。また、戦争を経験していなければ知りえなかったようないわば「犯人しか知りえない情報」のようなものが見当たらない。もちろん、これは「創作」なのだから、現実に経験している必要はないのだが、まるで毎週放映されるテレビアニメのように、都合よく「酷いこと」が周期的に起きてくれる。それは何故かといえば、そのひとつ上のレベルにいる「作者」が必要あってそのようにしているからである。まあ、そんなことをいうのは実も蓋もない話だけれど。
つまり、この「流浪する子供」の視点と作者の俯瞰的な視線が、選り分けられていないという感じを受ける。それは意図的な技法というよりは、書き手の焦燥感のようなものが強すぎるがために、主人公の存在を超えてそれが露出してしまっているといった体だ。
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■ 構造論
「Amazon.co.jp: 山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー): 高馬 三良: 本」、五分の二。
さすがに同じような文章の繰り返しで辛くなってきた。山河と動物に関する各種データとそれを並べるパターンの連続でできており、うまいこと因数分解すればかなり縮まりそう文章である。果たして、最後までこの同型の文章が続くのだろうか。少しは神様が飛んだり跳ねたりしてくれるのだろうか。
2012/02/07
■ 書換論
「Amazon.co.jp: 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫): プルースト, 吉川 一義: 本」、二分の一。
多分、またぞろあの大きな問題に出会っている。「日本語としての自然さ」を採るか、「原文になるべく寄り添う形で訳すか」を採るかという問題に。この吉川版を、僕は最初前者のものだと思っていた。しかし、読み進めるにつれて、後者の方により重心を置いているなと思えてきた。例えば、書き出しの一行目は吉川氏訳ではこうなっている。
長いこと私は早めに寝(やす)むことにしていた。
日本語として間違ったものは何一つ使われてはいない。しかし、多分、このような表現の組み合わせは日本語ではあまりされたことがない。音読してみても、いまひとつピリッとしない。何かうまく閉じられていないという感覚が残る。この短さで「こと」が二回使われているのも気になる。
では、いつものように最初の数節を僕なりに勝手に書き換えてみよう。すると、こうなる(もちろん、いつものように、原文がどのようなものであるかなどは与り知らぬところである)。
「私に早寝の習慣が身についてから久しい。時には蝋燭を吹き消した途端に眠ろうと思う間もなく幽冥の中に落ち込むことすらあった。ところが半時もすると、もう寝なければと逸る気持ちで再び目覚めてしまう。まだ手にしているつもりの本を脇に退け、灯りを吹き消そうとする。どうやら寝ている間も先の読書のことが頭の中で継続していたようで、それが不思議な形でこうして現れたもののようだ。私自身が、本の中で語られていた教会や四重奏曲、フランソワ一世とカール五世の戦いの代わりとなっていたのである。」
僕自身、入眠時にそれまで考えていたことがそれと気付かれることなく脈絡を失い、後から思い返すとどうしてそんなことを考え得たのか不思議でしょうがないような思考を展開し始めるといったことをほぼ毎晩のように経験しており、それに引き寄せる形で書いてみた。多分、後でものすごく恥ずかしくなるだろう。
逐語訳には、日本語として馴染みの薄い語と語の連結を生み出しやすいというところがあると思う。何せ、原文は我々の言語の慣習などまったく知りもしないのだから、辞書的な置換をしてもそれだけではしっくりこない。もちろん、それは必ずしも悪いことばかりではなく、それが新たな表現への活路を開いたり、未知の異化作用をもたらすということもあるに違いない。
2012/02/06
■ 文弱論
「Amazon.co.jp: 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫): プルースト, 吉川 一義: 本」、二分の一。
あれよあれよという間に半分まで来てしまった。派手なアクションがあるわけでもないし、大きな事件が起きるわけでもない。訳文にも首を傾げるところがしばしばある。しかし、もう僕はこの作品から目を離すことができない。
何故だろう? 文章を読む。そこに何かが書かれており、それを受け取る。理解する。得心する。実のところ、この当たり前のところが当たり前に働いてくれないことの方が多いのだ。それでも読み始めた以上は読み続けねばならず(誰に何を頼まれたわけでもないのに)、うまく収まりのつかなかった思いがぽろぽろとあちらこちらに零れて、さながら幼い子供がクッキーの大部分を自分の周りに撒き散らしながら齧っているといっただらしない読み方になる。
しかし、この作品では十読めば、ちゃんと十の「入り」がある。いや、そのような数理的な解釈すらもどかしい。僕はこの小説の語り手と同じリズムで呼吸し始めている。その寄り添いのために障害となるようなものがほとんど感じられない。お気に入りのクッションに顔を埋めるように、僕はこの文章の中に入り、それをあたかも自分がそこにいてそう思ったかのように歩調を合わせている。僕にはマドレーヌも教会のミサもなかったが、何かそれに類するような近似的体験の記憶がうっすらと心の片隅で僕を手招きしているように感じる。文弱の少年が世界をどのように感受する(していた)かということに関しては、洋の東西を問わぬものがあるのかもしれない。
数多くの大作家をこき下ろしてきたナボコフが心酔を口にする数少ない作家の一人がプルーストであった。なるほど、『賜物』のような作品には、このプルーストの大作の影響がかなり感じられる。また、貴族階級(またはそれに近いもの)出身者としてのシンパシーもあっただろう。
2012/02/05
■ 官能論
「Amazon.co.jp: 失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫): プルースト, 吉川 一義: 本」、四分の一。
早々に挫折するのではという危惧もあったが、今のところうまく馴染んでいる。自らの内に降りていってそこから言葉を汲み上げる巧みさや、豊かな隠喩など、ここには「読む官能」とでもいうべきものが溢れている。読みかけの本はいろいろあったし、中国の古い怪奇譚などにも最近心が動かされていたが、それらをすべて遮断して今はこの「二十世紀最大の小説」とやらを思う存分味わいたい。
2012/02/03
■ 失踪論(改)
「そんな名前の選手は我が国の代表にはいません。何かの間違いではありませんか?」
受話器の向こうで大使館員の冷たい声が響いた。
「いや、そんなはずはないんですが。彼は私の国との試合でゴールを決めているんですよ。それはちゃんと協会の公式記録にも載っています」
「ですから、先ほども申し上げたとおり、そのような名前の選手はこちらの名簿には記載されておりません。公式記録であろうが、何であろうが、当国の構成員に関する情報としてプライオリティが高いのがどちらであるかについて、改めて申し上げるまでもないと思いますが」
穏やかではないな、と私は胸のうちで呟いた。祖国の英雄への取材に嬉々として応じてもらえるだろうという私の目論見は脆くも崩れ去った。石のように寡黙な、つまりはある意味で雄弁な沈黙があった。訓練されているな、と直感的に思った。ただの大使館職員ではないだろう。
それから二ヶ月ほどかけて私が断片的に集めた情報によると、話の大筋は以下のようなものになる。****年、母国に帰還した「X」は、国民に熱狂的に迎えられ、しばらくはお祭り騒ぎが続いた。各種勲章が授与され、名誉市民の列に名を連ねた。そんな彼の姿がある日突然新聞からもテレビからも消えた。とある宴席でのほんのちょっとした発言がきっかけで投獄されたのだという。すべての灯りは消され、静かな日々が舞い戻った。人々は彼を忘れた。彼に関する記録もひとつずつ丁寧に消されていった。
細かな異論はいろいろとあるが、そこまでの話はおおむね正しいといってよい。決して、本当の身分を明らかにしないこと。それが私が出国する際の条件だった。砂漠の真ん中で目隠しを解かれた時、私を置いて飛び去るヘリコプターのぱたぱたという羽音が背後で遠ざかった。三日三晩飲まず食わずで歩き続け、小さな集落にたどり着いた。奇跡的にも、心優しい朴訥な人たちの棲家だった。そこで畑作業を手伝いながら一年を過ごした。体中の青痣が目立たぬまでになった頃、その村に別れを告げた。そこからの長い道のりについては多くを語るまい。何枚かの偽造パスポートと、整形手術が私をここまで導いてくれた。私を奈落の底に突き落とした国はもう目と鼻の先にあった。
社会の底辺を毒虫のように這い回る生活を何年か続けた後、私はどうしても好奇心を抑えられず、大使館へのダイヤルを回した。私が誰であるか、向こうも感付いていることだろう。ある意味、私は掟を破ったのである。
2012/02/01
■ 失踪論
「そんな名前の選手は我が国の代表にはいません。何かの間違いではありませんか?」
受話器の向こうで大使館職員の冷たい声が響いた。
「いや、そんなはずはないんですが。彼は私の国との試合でゴールを決めているんですよ。それはちゃんと協会の公式記録にも載っています」
「ですから、先ほども申し上げたとおり、そのような名前の選手はこちらの名簿には記載されておりません。公式記録であろうが、何であろうが、当国の構成員に関する情報としてプライオリティが高いのがどちらであるか、それは改めて申し上げるまでもないでしょう」
アマト・デボラ。これが我々が知っている彼の名前である。二〇**年、我が国でとあるスポーツの国際大会が開催されたとき、彼は*国の代表選手として来日していた。目立つような選手ではなかったが、献身的なプレーでチームを支え、決勝トーナメントの二回戦では試合を決するゴールをあげ、私たちの代表を打ち砕いている。そんな彼のことを大使館員は知らないと言い切った。しかも、彼のゴールはただ我々の前途を絶ったというだけではなく、彼の国にとっては歴史的な大躍進をもたらした貴重な得点でもあったのだ。そんな彼の名前が消されている。
穏やかではないな、と私は胸の内で呟いた。耳元にはまだ冷ややかな感触が残っていた。*国の不安定な政情については時折耳にすることもある。周囲を列強に囲まれ、内政への干渉から元首の首がころころと挿げ変わることでジャーナリズムの世界ではよく知られていた。小さいながらも鉱山や油田をいくつか抱え、かつては「世界で最も小さく、そして唯一の成功した」社会主義国家として名を馳せたものの、二十年ほど前にあえなくそれも瓦解し、以後は過激な民族主義と列強資本の傀儡政権との間で血生臭い争いが絶え間なく続いているという。
(未完)
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